東京電力福島第一原発事故に伴う放射性物質の影響で甲状腺がんになったとして、事故当時、福島県内に住んでいた若者6人が東京電力に損害賠償を求めた「311子ども甲状腺がん裁判」の第2回口頭弁論が9月7日(水)に開かれた。原告のうち、もっとも年齢の若い高校3年生の女性が法廷に立ち、原発事故によって、将来への夢を描けない思いを訴えた。
法廷に立ったのは、原発事故当時6歳の高校3年の女性。13歳で甲状腺がんが見つかり手術を受けたが、高校2年生で再発。昨年2度目の手術を受、今年5月に開かれた同裁判の第1回口頭弁論の直前にアイソトープ治療を受けた。2回目となる原告の意見陳述。今回も、証言台はついたて仕切られ、姿の見えない中での陳述となった。
かすれるような小さな声で語り出した原告。1回目の手術後、出された食事が喉を通らない場面で、声を振るわせ、その後、何度か涙声になった。もっとも声を詰まらせたのは将来を語る場面。「将来の夢もまだはっきりしないうちに全てが変わってしまった。だから私は、将来自分が何をしたいのかよく分かりません。」
幼い頃に原発事故に遭遇し、双相地域から避難した女性。自己が確立する前に病気となったため、自分の性格も、将来の夢もわからないまま、不安な日々を送っているという。
女性の読み上げた意見陳述の全文は以下の通り。
3ヶ月前の5月26日。
この裁判の1回目の口頭弁論がありました。
この日、私は生まれて初めて裁判所に入りました。
ついたての後ろの私の席からは、裁判官の横顔だけが見えました。
高校生の自分が、まさか裁判の原告になるとは思っていませんでしたが、原告席に座って初めて、自分が当事者なんだと実感しました。
私は、この裁判の1回目の期日が開かれる直前に、アイソトープ治療を受けるための入院をしました。
アイソトープ治療は、甲状腺を全部摘出した後、再発や転移を防ぐために、大量の放射性ヨウ素を服用する治療です。
私は高校3年生、17歳という年齢で、この治療を受けることになりました。中学生の時に甲状腺がんとなり、そして昨年、再発したからです。
裁判官の皆さん。11年間の私の経験を聞いてください。
1 事故当時のこと
原発事故が起きたのは、私が幼稚園の年長組の時でした。
家で昼寝をしていたとき、大きな地震がおそってきました。
視界が大きく揺れて、色々なものが落ちてきました。
外の様子を見るために、母親と一緒に外に出たことを覚えています。
車であわてて避難することになった時、私は、ここにはもう戻って来れないかもしれないと思いました。
避難先の「スクリーニング」場となっている病院で、「どこからお越しですか」ときかれたので、家の場所を答えたら、履いているクツを脱がされ、スリッパをはかされて、放射線量を計測されました。
その時、対等な人として見られていないような、疎外されているような感じがしました。
このときの経験がトラウマとなり、他の人に避難してきたことを隠すようになりました。
2 がんが見つかった時
中学校1年生の時に、学校で甲状腺エコー検査がありました。
事故が起きてから3回目の甲状腺検査です。
診察してもらった時、エコーを見ている医者と看護師が私のエコーを見て何か話をしていました。エコーの機器を、何度もなんども甲状腺の部分に押しあてて診ていたので、不安な気持ちでいっぱいでした。
診察が終わって教室に戻る時、私より後の順番だった人はすでに終わっていて、私がどれほど長い時間診察されていたのかがわかりました。
3 穿刺からガンと分かる時まで
ガンと言われた時のことはあまりおぼえていません。
でも穿刺細胞診の検査のことはよく覚えています。
その日は検査のため、中学校からの帰り道に直接病院に行きました。針を刺される前に、紙に名前みたいなものを書いたおぼえがあります。
その時に、一気に涙がぼろぼろでてきました。
「あ。今から首にはりを刺されるんだ。」と直感し、想像できない痛みに対する不安が、一気にあふれてきたんだと思います。怖かったです。初めてだったし、経験したことのないことをやるのだから。
検査では、診察台の上に寝かされて、細胞をとられました。目に入ってきたのは、細くて長い針でした。刺された時はあまりにも激痛で動いてしまって、2回も刺されました。
とても痛かったです。細胞に刺さったときは、なにか深いものにグサッと刺さった感覚がして、気持ち悪かったし、痛かったです。
どうして自分がこんなに痛い思いをしなくてはならないのだろうと思いました。
その後、私はがんなのだと分かりました。
その時、自分が具体的にどう思ったかはあまり覚えていませんが、ただ漠然とした不安だったと思います。私の体はどうなってしまうのか、入院するとなると、学校を休まなくてはならないのかなど、様々な不安がありました。
「ガンなんだ。そっか。入院するとなると勉強遅れてしまうな。」と考えていたと思います。
穿刺をしてからは、色々とふっきれたのか、その頃から、なんだか自分が少し変わってしまったかもしれません。
4 1回目の手術のとき
1回目の手術は、何もかもが初めてでどきどきしていました。
なにより手術後が辛かった。最初は、全身麻酔が抜けていなくてすごく眠く、数時間後に目が覚めたけど、今度は体が動かせなくて、起きているのに何もできない状態が長時間続きました。その日はほとんど眠れなくて、不眠状態でした。それが数時間続いたので、精神的にも肉体的にもきつかったです。
絶対安静の次の日、1日ぶりに食事が出ましたが、ものを飲み込むとき、手術したところがあまりに痛くて、涙がぽろぽろ出ました。15分くらい頑張って食べてたのに、おかゆが2cmくらいしか減っていなくて悲しくなりました。
これからどうなっていくのか、手術後は、手術前と同じ生活を送ることができるのか。これからの不安で、眠れない日もありました
5 2回目の手術のとき
がんの再発が分かったのは去年のちょうど今頃です。1回目の手術で甲状腺を半分摘出した際、「もう大丈夫」だと思ったのに、結局、もう一回摘出しなくてはならなくなりました。
2回目のがんの告知は、驚くこともなく、ただ残念に感じました。
1回目の手術の時は、中学2年生だったので、家族がずっと入院中、病室で付き添ってくれていました。
でも2回目のときは、コロナの影響もあり、家族との面会もあまりできなくて少し不安でした。何か体に異常があった時とか痛い時も、自分で看護師さんに言わなくてはなりませんでした。
2回目の手術は甲状腺がんを全て摘出し、かつリンパ腺まで摘出したので、摘出した右側の肩が上がりにくくなり、抜糸をした後は、首の右半分の感覚がなくなりびっくりしました。手術から半年以上経ったので、いまはだいぶ感覚は戻ってきましたが、触るとなんともいえない鈍い気持ちの悪い感触です。たまに、つっぱるときがあってとても辛いです。後遺症に近いものがあると思います。
6 アイソトープ治療について
アイソトープ治療も受けることになりました。入院期間は1週間でした。最初は意外と短いなと思っていましたが、入院してみると、とても長い1週間に感じました。
薬を飲んだのは、今年5月。前回の裁判の少し前です。
午前中にシャワーを済ませて、午後2時20分頃に薬が投与されました。
薬を飲む時、医師とはドア越しに対面した状態で、線量も測られました。
薬は、重い蓋のついた、ガラスの厳重な容器に入れられていて、厳重な注意を払って管理されていたので、「これを飲むのか」と、飲むのが怖かったです。
薬を飲んだ後は、人との距離を取らなくてはなりません。そのことは頭で分かっていましたが、精神的につらいものがありました。配膳の時も、テーブルを廊下側において、私はベッドの上で座って待つというスタイルです。
入院中、一度だけ、配膳の時に、ついテーブルの近くに寄って行ってしまったことがありました。すると、看護師に「近づかないで!」と言われたので、自分が人との距離をとらなくてはならない状態になってしまったことを感じて、暗い気持ちになりました。
薬を服用した後は、ただただ時間が長く感じました。ずーと壁を見つめる生活でした。病室には備え付けのipadがありましたが、ゲームアプリは入っていなかったので、ろくに使いものにならず苦痛でした。
薬を服用した翌日の夕方、のどの周りが腫れて、熱くなり、少し呼吸がしづらくなりました。こうした症状もナースコールで伝えることしかできず、のどの腫れは、どんどん悪化していったので不安でした。
症状の変化を何回もナースコールで訴えているうちに、担当の先生が診にきてくれることになりました。本当はまだ距離を保たなくてはいけないのに、触診をしてくれた時は、申し訳なさを感じました。
先生が回診に来る前、3時くらいに線量を計ったら、53マイクロシーベルトありました。30マイクロシーベルト以下になると退院できると教えてもらいました。
翌日は、朝起きたら声が異様なほどかすれていました。朝9時頃に先生の回診があったので、不安だった首の腫れと声のかすれのことを相談し、線量を測定しました。31.2マイクロシーベルトでした。
線量が低くなってきたので、予定通り翌日には、退院ができることが決まりました。
午後にもう一回線量を測定したところ、今度は24まで下がっていました。
退院は決まりましたが、その直前まで、のどの腫れは意外とひどく、薬を飲んでアイスノンで冷やしていました。声もかすれていて、一時は声を出すのがつらいほどでしたが、徐々にだせるようになっていきました。これは薬の副作用なので仕方がないそうです。
入院中は、これらの副作用と病室でじっとする生活が続き、眠れるかどうかも不安で、精神的にも身体的にも大きな負担がかかりました。もう二度とこの治療は受けたくありません。
7 最後に
過酷なアイソトープ治療を受けた直後の5月26日、この裁判の1回目の口頭弁論があったので、体調面の不安もありましたが、裁判を傍聴するために、上京しました。
私は小学校に入る前に原発事故に遭い、以来11年間、小さなアパートで避難生活を続けています。そして13歳でがんになり、17歳で2度目の手術を受けました。
原発事故の時も、検査のことも、まだ小さかったので、何が起きているかよく分からず、覚えていることはほとんどありません。
自分の考え方や性格、将来の夢も、まだはっきりしないうちに、全てが変わってしまいました。
だから私は、将来自分が何をしたいのかよく分かりません。
ただ、経済的に安定した生活を送れる公務員になりたいと考えています。
恋愛も、結婚も、出産も、私とは縁のないものだと思っています。
私にとって高校生活は、青春を楽しむというよりは、安定した将来のため、大学進学のために学校推薦をもらうための場です。友だちとの関わりも、深いつきあいは面倒なので、距離を置いています。
それでも、時々、勉強に対するプレッシャーや、将来への不安で、眠れないことがあります。
私は将来が不安です。
とくに、金銭面での不安が一番大きいです。
18歳になって医療保険にも加入できなかった場合、これからの医療費はどうなるのか。病気が悪化した時の生活はどうすればいいのか。本当に不安です。
精神面でも不安はあります。
半永久的に薬を飲まなくてはならないし、ずっと今後も定期的な受診をしなくてはならないと思うと、なんとも言えない不安があります。この裁判で、将来、私が安心して生活できる補償を認めてほしいです。
私が裁判官の皆さんに、一番伝えたいことは、今までお話ししたこと全部です。